オリンピック開会式を観ながら

コーネリアス小山田圭吾の音楽は開会式冒頭の数分だけ使われる予定だったそうだけれど、NHKの中継を見ていたら、取り残された映像を見ていても、あ、これはコーネリアスの音楽だったら映えたなと思った。
ピエール瀧ASKAのドラッグが「現行犯」だったなら、小山田の発言に「時効」はないのかと思った。セクハラもパワハラも障害者差別へのアンテナもそれほど高くなかった二十数年前の発言がいまさらに・いまだからこそ、タイミングよく持ち出され、断罪された。普遍・妥当的な制裁というより、多分に揉み消し感がただよう退陣劇だった。
別に小山田圭吾を弁護したいわけではない。
このタイプの制裁が普遍になれば、ひとは過去に一度でも失言したなら、何度でも・いついかなるときでも・蒸し返されて、表舞台からひきずり降ろされることになる。
でも実際の制裁の運用は恣意的なものだから、心配する必要はない。大丈夫だろう。なにしろナチスの効用を「公言」した副総理のポジションは安泰そうなのだし。
このオリンピックはこうなったら、最初から最後まで「茶番」であってほしい。雄々しさも崇高さもいらない。
このオリンピックも半月後には「過去」になる。
そして「検証」の対象になるのだ。
そのときこのイベントはようやく「フェアに」裁かれるだろう。
いま中継されている「それ」は、「そのとき」のための「資料」が撮影されているのだ。
不手際と不祥事がめまぐるしく連鎖した、このやらなくてもよかった行事。
その行事の不可解さを時間をかけて解きほぐしていく。
その茶番のひとつひとつを、何度でも・いついかなるときでも・蒸し返して、検証する。何を?
日本を、スポーツを、政治を、群集心理を。
なによりもメディアイベントの茶番さ加減をこれほど露呈させた出来事はないだろう。
メディアイベントとは多かれ少なかれ、こんな茶番であり、グロテスクなものだという発見を、周知のものにしたのが、この「2020東京オリンピック」の最大の「貢献」かもしれない。
さて退屈で・儀式的な各国入場が始まった。
テレビのスイッチを消し、自分の仕事へ戻ろう。