■五輪始まったね(7/27火)■

フェイスブックを見ていたら、「スポーツの語源は《楽しみ》なんだよ」という友人のコメントが目に留まった。
それは聞いたことがなかった説だったので、試しにグーグルで調べたら、「スポーツの語源=気晴らし」だった。だいぶ意味が違う。
その友人は地元の少年スポーツクラブの指導者をしていて、そのクラブは地元の夏祭りの松本市あげての盆踊り大会で踊っていて、誰よりもその指導者がのりのりで、毎年それを見ては無残な気持ちになる。
それにしても、未成年スポーツクラブの指導者をやっていたら、スポーツにまつわる嘘をつくのは致命的だろう。「人という字は・・・」みたいなノリで少年たちに広めていたら醜悪だと思う。

NHK世論調査を信じれば、国民は僅差で過半数、オリンピックの開催に疑問を呈していた。つまり現在世論に支持されていない超大規模イベントが、素知らぬ顔で行われている真っ最中なわけだ。
ツイッターで識者の言動を見ていたら、問題が多かった開会式を「観ない」という声が多かったが、ぼくはこの国の悲惨をちゃんと目にとどめておくためにも少しは見ておいた方がよいように思って、断片的に見た。特に批判的な思いはわかなかったが、すごく単純な話として、参加国全国を紹介するという基本的にゆずれない条件があっては、どうしたって間延びするしかないイベントだった。この基本的難点を逆転クリアしたら、それはオリンピック開会式の革命につながるだろう。端的に言って、ひとの集中力の科学的知見を信じれば、せいぜい45分を2ターン制にして、どうにか1時間半以内に式おさめるようにできないのだろうか。3時間半も続き、メインが行進では誰が見ているのだろうか。

先日、テレビをつけたら日本女子がバレーボールの試合をやっていた。反五輪なメンタルの持ち主であったはずのぼくは、案外に嫌悪感を抱かず、それどころかスポーツ観戦の基本スペクタクルな感興すらもよおした。
スポーツは切り取りかたによって、いとも簡単にスペクタクルを帯びる。競技者の人格や、指導者の叱咤、実況の誘導性などなどがもっと顕著になっていれば、素直に観れたかわからない。だからいくら13歳という他愛ない年齢の者だからといって、その少女が金メダルをとったとしても、「世界中で自分の名を知らない者がいないほどになればいい」などと、究極の虚名願望は公共放送に耐えないように思った。

またときどきオリンピックを見ては、反五輪の立場から見た思いを、お茶を濁さず・自分の声で、記録に残しておこうと思う。

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五輪の最中

 

オリンピック開会式を観ながら

コーネリアス小山田圭吾の音楽は開会式冒頭の数分だけ使われる予定だったそうだけれど、NHKの中継を見ていたら、取り残された映像を見ていても、あ、これはコーネリアスの音楽だったら映えたなと思った。
ピエール瀧ASKAのドラッグが「現行犯」だったなら、小山田の発言に「時効」はないのかと思った。セクハラもパワハラも障害者差別へのアンテナもそれほど高くなかった二十数年前の発言がいまさらに・いまだからこそ、タイミングよく持ち出され、断罪された。普遍・妥当的な制裁というより、多分に揉み消し感がただよう退陣劇だった。
別に小山田圭吾を弁護したいわけではない。
このタイプの制裁が普遍になれば、ひとは過去に一度でも失言したなら、何度でも・いついかなるときでも・蒸し返されて、表舞台からひきずり降ろされることになる。
でも実際の制裁の運用は恣意的なものだから、心配する必要はない。大丈夫だろう。なにしろナチスの効用を「公言」した副総理のポジションは安泰そうなのだし。
このオリンピックはこうなったら、最初から最後まで「茶番」であってほしい。雄々しさも崇高さもいらない。
このオリンピックも半月後には「過去」になる。
そして「検証」の対象になるのだ。
そのときこのイベントはようやく「フェアに」裁かれるだろう。
いま中継されている「それ」は、「そのとき」のための「資料」が撮影されているのだ。
不手際と不祥事がめまぐるしく連鎖した、このやらなくてもよかった行事。
その行事の不可解さを時間をかけて解きほぐしていく。
その茶番のひとつひとつを、何度でも・いついかなるときでも・蒸し返して、検証する。何を?
日本を、スポーツを、政治を、群集心理を。
なによりもメディアイベントの茶番さ加減をこれほど露呈させた出来事はないだろう。
メディアイベントとは多かれ少なかれ、こんな茶番であり、グロテスクなものだという発見を、周知のものにしたのが、この「2020東京オリンピック」の最大の「貢献」かもしれない。
さて退屈で・儀式的な各国入場が始まった。
テレビのスイッチを消し、自分の仕事へ戻ろう。